バッハが愛し、音楽家たちの創造の源泉として貢献した鍵盤楽器。クラヴィコード 古典ピアノ研究家 うえだあや

クラヴィコードについて Clavichord バッハが愛し、音楽家たちの創造の源泉として貢献した鍵盤楽器。 長方形の箱にほとんど平行に張られた弦、これがこの楽器の形状である。 鍵盤の奥で直立する金属片タンジェント(マイナスドライバーの先のような)が開放弦をたたいて音を出す。そのため音は非常に小さく、しかしながら繊細な音色を醸しだす事ができる。

16世紀から18世紀に全盛を迎えたクラヴィコードの前身は、紀元前のモノコードに始まる。 モノコードはピュタゴラス、ユークリッドらによって音程の測定機またはその教材として用いられた。モノコードは一本の弦と駒でできている。この駒の位置を自由に動かすことによって弦長の比率を変化させ音高を変えることができる。つまり弦長の二分の一の所に駒を置くとオクターブ上の音を出すことができるという具合だ。ちょうど私たちのよく知っている琴を思い浮かべるとよい。琴は複数の弦と駒をもつが、モノコードも次第に弦を複数にして、ポリコード、マニコードの名前になり、クラヴィコードへ変化して行く。 中世には、『音楽に用いられるすべての音はモノコードを使って作ることができる』とまでいわれ、鍵盤と連結する考えはオルガンによった。

余談になるが、モノコードが考え出された背景には、古代人の宇宙観が大きく関わりをもっている。古代人は『宇宙の調和、それは最も美しく完全なものであり、その秩序と法則の神秘を解く鍵を握っているには音楽である』と考えてきた。なぜなら『地上の物が動くのと同様に、天体が動けば必ず音がするはずだ』それならば天球の7つの惑星を観察し、その惑星間距離を比率として割り出し、7つの音にあてはめて、一本の弦に駒としておいてみる。当然そこから出る音は協和音として最も美しいものであるはずだ。このように考えた人々は弦に鍵盤をつけ、次第に発達させてきた。

14世紀ごろには小さかったクラヴィコードの本体も、16世紀ごろから次第に大きな物へと変わり、18世紀には全盛を迎える。この時代は人類の発達段階として最初は歌唱、すなわち言語の音響化に重きをおいてきた音楽が、その言語の意味以上のものを音楽で表現しようとすることに挑戦する時期でもある。音楽でしか表せない荘厳さ、華麗さ、感情の深さを言語から離れて音のみで表現すること、これはルターの宗教改革によって、プロテスタント・コラールが登場し、多声曲が次第に複数化し、会衆がそれを歌うとか、演奏に参加するとかが不可能になったために、楽器、たとえばオルガンの担う役割がふえたことによる。バッハのオルガン・カンタータがいかに華麗で荘厳であるかが良い例である。

大教会でのオルガンに対しクラヴィコードはそれを小さな場所で美しく響かせ、ヴィブラートなどの微妙なニュアンスまでも表現できる楽器としてドイツの音楽家たちに重宝された。バッハのフランス組曲、平均律、ハイドンのソナタ、モーツアルトの魔笛など多くの名だたる作品がクラヴィコードで作曲され、この時期の音楽家たちの創造の源泉として貢献している。

残念ながらクラヴィコードはその音量の小ささゆえ、社会の価値観の変化ゆえに姿を消してしまった。現代は大量動員の大ホールに適した楽器のみがもてはやされ全く演奏されることはない。当然このような楽器が存在したことも人々は忘れ去ってしまい、過去の名曲がどの様な響きで作曲され演奏されたか知るよしもない。 今この楽器が製作されてその姿や響きを再現できることは、めったにない機会である、過去へのロマンをかきたてるファンタスティックな体験であることは間違いない。 クラヴィコードの真価はこの小さなサロンゆえに存分に発揮されるだろう。 皆様に紹介できることを幸せに思う。
クラヴィコード
バッハの最初の伝記作家 ヨハン・ニコラウス・フォルケルの伝評より
チェンバロは、実に様々な奏法ができるとは、心がこもっていないように思えたし、フォルテピアノは生まれて日が浅くあまりにもぎごちなくて満足できない。
勉強のためにも個人的に音楽を楽しむためにクラヴィコードこそ最良の楽器である。

ヨハン・ニコラウス・フォルケル
J.S.BACHの伝評より 1802年

クラヴィコード
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